問いがアツい

まぁいつもの課題のやつですね。

 

読んでみて感想や反論等をお待ちしています。

 

 

 

 

良い問いとは何か?


私はすべての問いは,良い問いであると考える。この考えは,よい問いというものが,問われた問いに対して答えられないというものである成分を前提としている。
私が経験した哲学の授業では授業参加者が問いを立て,ホワイトボードに各々の問いを書き連ねていた。その後,投票を行い,議論したい問いを多数決によって決める。この時,参加者は無意識に議論したい問いの基準を自分の中に設け,その基準にそぐうかそぐわないかを無意識に判断しているようだった。この基準の中にはもちろん興味,面白いか面白くないか,そして良い問いと言えるかなどの基準の成分が含まれると考えられる。私自身,基準は自分が知っているのに基準は何かと問われた時に基準の成分をわかっているだけで答えることができなかった。これは「時間というものを我々は知っているが,時間とは何かと問われたときに我々は答えられない(青山拓央,2000,31)」というのと似ている。問いに当てはめるならば,良い問いというものを我々は知っているのに問われると答えられないのである。まさに,良い問いとは何かという問いには私自身答えることができないのである。
しかしながら,答えられない問いは問いではないという反論があるだろう。そもそも,問いは答えと一対であるものだと。だが,「真実は存在しない,あるのは解釈だけである(フリードリヒ・ニーチェ)」というように全ての問いに対する答えは真実ではなく,我々は解釈を通して答えのようなものを出しているだけなのである。すなわち,一般的に答えることができると考えられている問いは答えられない問いでもある。もし,良い問いが答えられない問いであるならば全ての問いは良い問いである。この良い問いとは何かという問いに対しての答え,すなわちこの文章は答えではなく解釈であり,言うなれば答えというものの一側面である。

 

 

 


弁証法は元々人間に備わっていたのか


先日の現代企業論の授業で私はMECEという思考法を目にした。これは物事には必ず逆や裏がある。一点があれば構造が出来上がるといったMECE的感覚を含む。ここで,私はロジカルシンキングという視点から弁証法というものを取り上げている記事を見つけた。その記事では,弁証法は事物や命題に否定を通じて新たな,より高次の事物や命題へと再生成されるプロセスであると書いてあった。この言葉を聞いてすぐに浮かんだのはパラダイムシフトであった。
弁証法哲学史的には古代から議論されているもので,ヘーゲルマルクスが定式化したものである。ここではヘーゲル弁証法を扱う。また,パラダイムは規範とも訳される言葉で約60年前にその概念が使われ始めた,ある時代のものの見方,考え方を支配する認識の枠組みである。例えば,天動説が唱えられていた時代には天動説が正しいと認識されていた。しかし,地動説が出てくることにより地動説を正しいと認識するパラダイムにシフトした。このように弁証法パラダイムの交代構造は似ている。すなわち,弁証法の中にパラダイム論を含むのであるならば我々は意図せずに社会全体で弁証法を用いて世界や事物を理解していたといえる。つまり弁証法は人間に備わっていたと言える。
だが,弁証法弁証法という概念によって人間に備わったのであって人間に元々備わっていたわけではないという反論があるであろう。ところがこの反論自体が,弁証法が人間に元々備わっていたことを示唆している。人間に備わっていなかった弁証法という概念は,弁証法という概念のアンチテーゼによって,人間に備わった弁証法というジンテーゼへと再生成されているのだ。また,現在弁証法と言われる手法は弁証法という言葉で表されるが,もし別の言葉で表されていたならばそれは弁証法ではない。けれども弁証法という概念は同一なものなのである。
したがって,私は弁証法は元々人間に備わっていたと考える。