最近の感覚
気づけば全く更新しなくなっていたブログ,どうやら最後の更新から90日以上経つと広告がついてしまうらしい.
自分は周りに影響されやすいタイプらしく,友人がブログを真面目に書いていると自分もあやかって書きたくなってしまう.そんなこんなで書いてるわけだ.
とはいえ,このブログを書けているのは,台風が来ているからである.
台風の力で「郡上カンパニー」で行われるプロジェクトには行けなくなってしまい,風呂に入りながら,もし行けたならば,のことなんかを考えていた.(岐阜県の郡上市,西洞という地域を活性化させるプロジェクト)
自分が見ている周りの感覚というのは,主観的にしか分からないし客観性が必要だと感じている.今回のブログはそう長く書くつもりはないし,ただ,友人の起こしている行動や,発信に自分も乗っかる,そしてみんなに客観的に見てほしい,そのようなことがメインだ.
この記事を見てほしい.
身内であれば,誰が書いてるかはわかると思う.自分は正直,何かやりたいことがあって,それに向かっているつもりだが,一方でその方向が分散しているようにも感じている.だからこそ,このような記事にあるように,一つの物事に対してしっかりと向かっていくことなんかを見ると嫉妬してしまう.
羨ましいと
羨ましいと思うのは簡単だし,いいな,と思うことも簡単.将来,こいつはこんなことやっているんだろうなとか,ある方向に向かっていることが客観的に見て取れる人を見るたびに思っている.
その思いは,自分の中でようやく飲み込めた気がしている。つまり,何かの原動力になっているということだ。その何かは,まだ見えないが…
みえてないといっても,おおよそは,多分問い,疑問に思うことの原動力な気はしている。
例えば,自分は社会のどこにいて,どんな役割で何のために今学校に通って,何のために研究をしているのかなど。数えきれないほどある。今まで何の疑問も持たずにすべてに対して向き合って生きてきたのが不思議になるくらいだ.
逆に,同年代のみんなは,そんな疑問は浮かばないのだろうか.
自分のやりたいことは何なのか,なんのために仕事をして,学業を成すのか.
ということで,疑問が浮かぶ人は僕にSNSを通して投げかけてほしい.そして僕もそれを自分の中に取り入れたい.
そういえば,疑問で思い出した.学内でそのうち哲学カフェやるので気になる方はぜひ.次回はチラシを作って本格的にやります.時間のある教員の方にも声をかけてやりますので.
ちなみに,僕の目標は卒業までに学校をぶっ壊すことです(物理ではない)
正直卒業研究では爪痕を残せないと思う?ので,それならばということで.詳細はまた落ち着いたらブログにでも書こうと思います.
それでは良い日々を
某授業の某感想
以下先日の授業での感想です。
20日に行われた講義では,実際に起業を行った○○さんからお話をしてもらった。その講義では,○○さんのキャリアや,起業に至るまでの道筋が示されていた。特にターニングポイントとなった部分を説明し,我々にもそのきっかけを促すような話をしていた。講義終了後,周りのクラスメイトは,起業の仕方(どのようにどうやって起業するか)や根性論的な部分ではなくもっと詳細な部分を知りたかった,そもそも起業に興味がないと言っていた。
私自身,講義自体にはかなりのめりこんでいたし,講義内容もよかったと感じていた。しかし,先ほど述べたようなクラスメイトの意見を聞いた際に,高専生にとっての起業という視点は足りなかったのではないかと感じた。
多くの場合,学校に来てスライドで講義を行うゲストの方々はいわば成功者といって差し支えないはずだ。成功を,何を基準としてしているのかは別として,一般的な視点に立てってみたときに敗者ではなく成功者であると皆が判断するはずだ。我々学生からすれば,そのゲスト達のキャリアを聞くと,現実離れしていると感じてしまう。偏差値が高い大学で,やりたいことをやるために突き進み,留学を経験し,どんなこともできる。そのような印象を受ける方々ばかりである。確かに,ゲストの方々の講義によって我々は新たな刺激を受けるし,それがきっかけで行動を変えること,人生像が変わることはあると思う。ただ,その講義一回だけでは本質が見えてこないのである。大半の人が,こんな人もいるのだな,で終わってしまう。講義だけで,自分の本当にやりたいことや将来像,そこへ至るまでのアプローチを自分自身の中から引き出すことはできない。
そういった視点で,○○さんは学生を自分のテリトリーに巻き込もうとしていたので,その部分は○○さんの気持ちが伝わったと思うし,巻き込まれてみたいと思った学生を作りだしたことはかなり大きな一歩であると考えられる。一方で,起業の魅力を全く感じられない高専生からすればこの講義は少し退屈であったのかもしれない。お金を稼ぐための仕事であって,趣味や土日のために働く人も少なくはないと思う。その人たちにとってみれば,少なからずリスクを伴う起業や,仕事にやりがいを求められることは違うと考えているのであろう。その人たちの動きづらい精神をどう変えるのか,そこが重要になるのではないだろうか。今回の講義は,やりたいことを突き詰めるような人々のための講義であったが故に,そういった人々を巻き込めなかったのは事実である。
最後に,私が○○さんに,海外旅行などで○○さんにしかないであろうと考えられる視点で発見したことは何かと尋ねると,日本の良さが少なからず浮彫になるといったようなことを言っていた。追加で,最悪,やりたいことはアルバイトをしながらであれば絶対続けられるとも言っていた。私は,その意見には納得したし,今後自分が挫折したときにはその言葉を思い出そうとも思った。次回,講義にもし来てもらえるならば,高専生たちの意見を拾いつつ中に入っていくような講義に私も参加していきたい。かつ,学生からの質問を受け付けられる時間も欲しかったのでその部分も少し考慮してほしいと感じた。
鎌倉を少しだけ見てきた件
やっと落ち着いたと思ったら
明日は学生生活の中に放り込まれてしまう。
休日が来るたびに,同じようなことを思い,知らぬ間に休日が通り過ぎていく日々。
こんな生活はどこか,色気がない気がする。
もちろん,休日のために仕事を頑張ろうとか,今度遊びに出かけるから今週いっぱいは何とか乗り切ろう,と思いながら平日を過ごす人は少なからずいると思う。
だけど,その生活には,何かが圧倒的に足りない気がする。その何かは,例えば,色なのかもしれない。
休日のために今を生きる,生活するのは,今自分が行っていることは遠回しにやりたくないといっているのと同義のように感じてしまう。(拡大すぎる解釈)
といっても,疲れたのを癒すために早く休日が来てほしいだけで,仕事は熱がこもっている人が多くいると思う。
その熱量は,家族や友人と一緒に楽しく遊ぶ時の熱量,ディズニーランド等のテーマパークに行く前日の高揚感を超えるもの,もしくはそれに匹敵するものなのだろうか。
一週間のうちに五日間ほどは,中途半端な気持ちで行動して,土日だけは最大とも言える熱量で過ごす。
僕自身,高専の約5年間はそんな生活だったのかもしれないと,後悔の念を含みながら思ってしまう。
だから,就職にしようと何にしようとあの熱量に匹敵するようなことで生活したいし,人生の大半を占めるであろう平日での行動を熱がある行動で埋め尽くしたい。(わがまま)
就職するみんなは,就職先をさっと決められた人もいるかもしれないし,すごい迷ったひともいると思う。しかし,就職先を自分で決めて,来年から数年間,もしくはそれ以上そこに身を置くと考えると,自分は絶対その選択を回避してしまうだろうと思う。その点で就職を選択した人たちには尊敬の念を抱く。
確かに,やりたいことがやれるかなんてわからないし,このまま一生やりたいことが分からないのかもしれない。けど,やっぱりもがいてみなきゃ(なんかの映画のセリフ)
まさに,ここでいっている「適応度地形 (fitness landscape)」と同じように進んでたら,きっとたどり着く…気がする
とまぁ,そんなことを考えながら江の島のゲストハウスで一泊してきました。
論拠もないような文章のご拝読有難うございました(笑)
以下はここ二日間の出来事です。
初日は江の島から七里ガ浜まで徒歩
片瀬江ノ島
とりあえず,駅について人が進む方向に行くわけです。
そうすると,海が見えてきた。そこで,適当に歩いて鎌倉まで行ってみるかと,googleを駆使して歩き始める。
海沿いは,海の家の建築?改修工事が行われているようでトントンという音が響き渡る。下の浜の方を見るとサーファーやパラセーリングをやっている人ばかりで,浜から上がってくる人が信号を渡ってこちら側に来ていた。うわ~肌焼けてていかにも海人といったような外見。俺には,絶対サーフィンできねぇだろうなぁと一瞥して,海から少し離れた寺の方に向かう。
寺の中は,骨董市をやっているようで,二人くらい外国人もいた。見たところ古いカメラや皮製品のショルダーバッグ,陶器なんかが陳列していた。本物の闇市をみたことがないが,あえて言うなら雰囲気も含めて闇市のようであったかもしれない。
寺自体は古い木造住宅のような外見で,中に入ると強い海風でガラス戸がガタガタ動いており,となりのトトロのサツキとメイが暮らすあの家を想像した。
中に入ると,観光客があまり来なさそうな雰囲気に包まれる。俗にいう廃れている感である。チラシの山はうっすらホコリをかぶっており,お正月に地元の方々が参拝に来られるくらいかなと推察。片瀬江ノ島から徒歩5分程度なのにもかかわらず観光客がほぼいないというのもびっくりであった。
そのあとは,花や伊勢屋みたいなお店が並ぶ通りを通って目的地へと足を運ばせた。(お昼の時間は中休みでやってなかった)
途中,パン屋さんに寄った。このパン屋さんは大通りに看板だけ出しており,パン屋さんへ向かう路地も狭く(「千と千尋の神隠し」の千尋が,夢の中で花と花の間を駆け抜けるときのあそこの幅くらい)見つけづらい。しかし,店員さんは優しい雰囲気のおばあちゃんだし,パン(豆乳なんちゃらとブドウパン一口サイズ)もおいしかったのでぜひ江の島に行った際にはいってみてね
鎌倉高校付近
このあとが,大変だった。
歩き始めると汗がやばいし,風がすごい強いから寒くなるし,もう暑いの寒いのかわからなくなる。いやぁ,ほんとに風邪ひいたかと思った。とかいいつつ1時間歩きましたけど。
特に気になったのは,鎌倉高校前の駅の人の密集具合。たしかに,スラムダンクの舞台だから人が集まるのはわかる。それにしても,予想以上の人数であった。制服コスをしている若い女性の人もいるし(大半は中国の人か韓国だった感じ),全体的に車の通行の邪魔になっていたように見えた。
鎌倉高校のほうまでちょっとみにいくと,高校前でコスプレイヤーの人らしき人が5人くらいで写真を撮っていた。土日だからまだ良いかもしれないが,平日となると鎌倉高校の人も大変そうである。
その鎌倉高校前の踏切の手前あたりに,病院があって,見た目からすると廃病院なんじゃないか?っていうくらいの外装の状態。入口まで行ってみたら普通にやってましたね。カーテンがガラス越しにきれいに張られているのが全部屋確認できたので多分運営されているとは思ってましたけど。
病院とスラムダンクの聖地(ファンの人に怒られそう)の次は,人がいないところに行こうということで,海と反対に登っていくことにした。
最初は緩い傾斜で,サクッと登れたけど,上に進むと段々と自分が疲れていることに気づく。そして,汗と強風とのトリプルパンチ。
しかし,見える景色はほんとに良い。そして,各々の家を人が住んでいるのか,いないのか自己判断するのが面白かった。
電気のメーターが動いていなかったり,植木がボサボサだったりすると,別荘なのか空き家なのかという判断。窓が開いていたり,車があるってことや洗濯物があると人がいそうだと判断できる。さすがに見た家全部の観察事項をメモすることはしなかった。ちなみに,人がいなさそうな家に訪ねてほんとにいないか確認しようかというところまでは行きました。実際に行動はしておりませんのでご安心ください。
その中で,典型的な空き家のような建物の裏口にはごみが捨ててあって,空き家問題が垣間見えたような気がした。そこら一帯は,見たところ高級住宅街みたいなところなので空き家もそれなりの家だし,典型的なお父さんが重役そうな感じで,お母さんが専業主婦で息子さんは少し内向きな性格であろう家族も見かけました。映画「二重生活」の石坂一家みたいな。
(わからないひとは「二重生活」を見よう)
ということで,登ったり下りたりを繰り返すあまり疲れてしまった僕は気づくと七里ガ浜駅から江ノ電に乗っていました。(急な坂はすごい疲れるし,住宅街には自販機もないし何の店もない。小さい公園はあった)
江ノ電は,外から見たときと同じように,人でいっぱい。車内のエアコンは若干カビ臭い感じ。あぁ,こんなの乗ってたら家帰ったときに「おうちが一番!」って思っちゃうなと。
旅先が最高で帰りたくない!と思わせるのが,観光地の最大の目的なのに…ちょっとオーバーツーリズム的側面を確認した瞬間であった。
そんなことを隅に追いやってTwitterをしていると江の島駅に到着。
立ち乗りだったし,おじいちゃんなので着いたらすぐ待合室へ。座って5分ほど休憩していると,お子さんとお母さん,ご年配の夫婦が入ってきた。待合室にはガラス箱に入ったプラレールと昔の江ノ電の模型の一部があったので子供たちはそれに夢中になっていた。
江の島方面
時刻は15:00
まだ,ゲストハウスに行くには早い。
ちょっくら,江の島本土に上陸しようと重い腰を上げて歩き始めた。けどやっぱり,身体が重くて動きづらい。
江の島への道のりで橋を渡ることとなるのだが(多分300 mあるかないかくらいな),この橋が長い。疲れてるおじいちゃんにとっては試練の道。海風超強いし,砂浜の粗い粒子が飛んできて目に入ったり,日差しが強くて,気持ち,やる気ゲージが減少していく。
とか言ってたら,到着。
江の島神社へ向かうには,小町通りの小さいver.を通って(緩やかな坂)行くことになる。
これまた,人が多い。おじいちゃんにはきついんだ。
基本的には露店のような感じで,人の流れが止まりやすい…イライラポイント500
けど,その分しっかりと周りを見ることができる。ペットと一緒に入れるお店があったり,自販機に硬化の種類を記した張り紙があったりする。
特にびっくりしたのは「江の島ネコ募金」
これは,江の島に持ち込まれた捨て猫がこれ以上増えないための避妊手術や治療,薬代の募金を募るものらしい。
正直,江の島に入って江の島神社に行くだけでは猫を見ることはあまりない。江の島の住宅街のほうへ入っていくとネコがたくさん見られる。自分が見た限りでは,基本的に日向ぼっこしているネコばかりで,かなり人慣れしているように感じられた。
びっくりしたのは,ホテルの新築工事が行われていることだった。
江の島には,いくつかの宿泊施設などがあると思っていたが行くと分かる,ないやつやん。かなりお高めのホテルみたいなのはあったが,やはり,僕ら庶民向けのがないのは困ってしまう。ゲストハウスなんかに行けばかなりお安く済むのに,ホテルへ泊まるとなるとそれの倍以上かかってしまうこともざらであろう。特に学生目線であると,という感じである。
あと,いわずともおじいちゃんだったのでその日は江の島神社に参拝には行けませんでした。
ちなみに,住宅地の中で窓が開いていたお家の家の人は,介護ベッド付近でテレビをみるおじいちゃんでした。たったこれだけ見ただけでも江の島の住民の方は高齢化しているのかと偏見を持ってしまったので気をつけます。
16日の行程はこれにて終了。
あとは,ゲストハウスに行くのみ。
ゲストハウスへ
まぁゲストハウスに行ったのですが,少し早かったようで,ベッドの準備などがされていなかった。とりあえず近くの公園で座って待つことに。
公園の隣はアパートで,観光地と住宅地が重なっているのは目に見えて分かった。
この公園は,海へとつながる川の近くにあったのでかなり心地よかった。そして,日の光を浴びながらいつの間にか寝ていた。時々きこえるブランコで遊ぶ子供たちの声,観光に来ているであろう女子高生の甲高い声。あぁ,寝かせてくれ…(そんなには気にならなかった)
いつの間にか,17時の鐘が鳴っていて,そろそろゲストハウスに戻ることにした。
といったところで今回は長くなりそうなので,分けて書くことにします。
僕も書くのに疲れちゃったんで。
それでは次回に乞うご期待ということで。
問いがアツい
まぁいつもの課題のやつですね。
読んでみて感想や反論等をお待ちしています。
良い問いとは何か?
私はすべての問いは,良い問いであると考える。この考えは,よい問いというものが,問われた問いに対して答えられないというものである成分を前提としている。
私が経験した哲学の授業では授業参加者が問いを立て,ホワイトボードに各々の問いを書き連ねていた。その後,投票を行い,議論したい問いを多数決によって決める。この時,参加者は無意識に議論したい問いの基準を自分の中に設け,その基準にそぐうかそぐわないかを無意識に判断しているようだった。この基準の中にはもちろん興味,面白いか面白くないか,そして良い問いと言えるかなどの基準の成分が含まれると考えられる。私自身,基準は自分が知っているのに基準は何かと問われた時に基準の成分をわかっているだけで答えることができなかった。これは「時間というものを我々は知っているが,時間とは何かと問われたときに我々は答えられない(青山拓央,2000,31)」というのと似ている。問いに当てはめるならば,良い問いというものを我々は知っているのに問われると答えられないのである。まさに,良い問いとは何かという問いには私自身答えることができないのである。
しかしながら,答えられない問いは問いではないという反論があるだろう。そもそも,問いは答えと一対であるものだと。だが,「真実は存在しない,あるのは解釈だけである(フリードリヒ・ニーチェ)」というように全ての問いに対する答えは真実ではなく,我々は解釈を通して答えのようなものを出しているだけなのである。すなわち,一般的に答えることができると考えられている問いは答えられない問いでもある。もし,良い問いが答えられない問いであるならば全ての問いは良い問いである。この良い問いとは何かという問いに対しての答え,すなわちこの文章は答えではなく解釈であり,言うなれば答えというものの一側面である。
弁証法は元々人間に備わっていたのか
先日の現代企業論の授業で私はMECEという思考法を目にした。これは物事には必ず逆や裏がある。一点があれば構造が出来上がるといったMECE的感覚を含む。ここで,私はロジカルシンキングという視点から弁証法というものを取り上げている記事を見つけた。その記事では,弁証法は事物や命題に否定を通じて新たな,より高次の事物や命題へと再生成されるプロセスであると書いてあった。この言葉を聞いてすぐに浮かんだのはパラダイムシフトであった。
弁証法は哲学史的には古代から議論されているもので,ヘーゲルやマルクスが定式化したものである。ここではヘーゲルの弁証法を扱う。また,パラダイムは規範とも訳される言葉で約60年前にその概念が使われ始めた,ある時代のものの見方,考え方を支配する認識の枠組みである。例えば,天動説が唱えられていた時代には天動説が正しいと認識されていた。しかし,地動説が出てくることにより地動説を正しいと認識するパラダイムにシフトした。このように弁証法とパラダイムの交代構造は似ている。すなわち,弁証法の中にパラダイム論を含むのであるならば我々は意図せずに社会全体で弁証法を用いて世界や事物を理解していたといえる。つまり弁証法は人間に備わっていたと言える。
だが,弁証法は弁証法という概念によって人間に備わったのであって人間に元々備わっていたわけではないという反論があるであろう。ところがこの反論自体が,弁証法が人間に元々備わっていたことを示唆している。人間に備わっていなかった弁証法という概念は,弁証法という概念のアンチテーゼによって,人間に備わった弁証法というジンテーゼへと再生成されているのだ。また,現在弁証法と言われる手法は弁証法という言葉で表されるが,もし別の言葉で表されていたならばそれは弁証法ではない。けれども弁証法という概念は同一なものなのである。
したがって,私は弁証法は元々人間に備わっていたと考える。
勉強の息抜きに
そろそろまじめにいろんなことを決めたり,やらなくてはとは思いつつ何もできていないのかできているのかわからない状況。ともかく小論文のためにでもなると思ってとりだしたパソコンでひたすら何を書くか決まらないまま文字を打っていくといつの間にか画面が文字で埋まる
そんなことありますよね(ない)
久しぶりに文章を書いてみるときは,新鮮な気持ちで書けるかというとそんなことはなくて何かやりたいことがあったりやるせないような気持ちを抑圧,発散することが後ろ立てとなっているからこう毎回不定期にブログをかいてる気がしてる←
先日読んだ(最後の数pageを残して読み途中)「タイムトラベルの哲学」
あまり読まないようなジャンルでありつつ,読み進めていくうちにやっぱり面白いと感じた。もちろんやっぱりといったのは哲学とタイムトラベルどちらに関しても読む前から少なからず読んだら面白うそうだなと思っていたからだ。
最初の対話形式で進んでいく会話の部分(1章程度だったきがする)は理解するのに時間がかかってしまった。
特に幾何学的モデルを用いてタイムトラベルに当てはめるところでは実在性と可能性についてもかなり混乱してしまったし,多分ほぼほぼ理解していない。
「単線的決定論」が過去から未来へと続く世界の歴史は一通りしかなくその内容はすべて決定されているとするものであり,「法則的決定論」が我々の精神を含めた世界すべての現象が一定の法則に支配されているという考えであることは分かった。
自分が自由である感じを持ちながらもそのすべては確率的な法則に支配されているなんてのも面白かった。もし脳のデータを数値化でき,次にはこのような行動をとるであろうと確率的に予測できるならまさに自由は自由でないとも言えそうだ。
もう一つ,タイムトラベルのパラドックスについて深く考えたことがなかったので「現在」から「未来」の自分に会いに行くというSF的な状況はタイムトラベルが可能であったとしてもあり得ないということに初めて気づかされたのが大きかった。
「現在」から自分自身が未来へタイムトラベルした時点で自分自身は「現在」からいなくなり未来では自分がいない世界が広がっているはずである。
時間旅行者が帰還するのが歴史に組み込まれていれば会うことは可。
しかしこれは「単線的決定論」を内包している……とまぁ続く
ここらあたりはまだわかりやすく論じられていたがこの本全体を説明しろと言われても説明できる気がしない。このようなジャンルの本を読み慣れたとしても難しいだろう。
そこで小論文の題に取り上げられていた部分から話題を広げていきたい。
「行動形成における遺伝と学習の関係について論ぜよ」
人は生まれた時点で両親から受け継いだ遺伝子,すなわち遺伝情報が決定されている。遺伝子によって決まっているのは顔の輪郭であったり骨格,血液型,遺伝子疾患などが挙げられる。ここで,子供から大人に成長していくに従って遺伝子疾患を患っていれば行動形成に影響が出るのは自明である。ここでの影響とは知的障害や自閉症などの症状に見られる特徴的な行動のことである。これら特別な遺伝的な影響を除けば基本的に遺伝情報の上に学習があるといった関係が考えられる。
多くの場合は生まれたときから両親もしくは親に代わるような人から学習することになる。代表的なのは言語であり,なまりや英語であったり日本語を話すのは生まれ持った赤子が人間の本質的な遺伝情報である学習能力をすでに持っているからである。遺伝によって学習能力に差が出ることや学習しずらいといったことは多々あるが重要なのは環境である。子育てに適したような室内でかつ摂取する食事等が子供,しいては大人になった子供の行動形成,学習に影響を与える。生活する環境が日本であれば日本人的な行動特徴を持ち,アメリカであればアメリカ人的な特徴をもつ。
ここで広大な森に置き去りにされてしまったターザンのようなパターンを考えてみよう。この場合森で生活していくうえで人間という体の構造,すなわち遺伝的情報が学習に影響を与える。すなわち遺伝情報の上に学習が位置していると捉えられる。
ただ遺伝と学習の関係は無意識と意識のような関係で,遺伝が土台であるがゆえに行動形成における学習においては遺伝的要素はあまり顔を見せない。例として食事での噛む回数や服の着方は学習や習慣化されたものであり変えようと思えば変えられる。対して遺伝情報は変えられない。すなわち遺伝的情報が行動形成に直接関与することはあまりないということである。
したがって,行動形成においては遺伝の上に学習があるといった関係が考えられる。
あまりうまくまとまってないのと反論を考えるのが面倒になってしまったので今日はここらへんで
模擬対話
題のとおりです
哲学の授業で出された課題の模擬的な対話劇を貼っておくので暇な方はどうぞ
M先生「今回の議題は『人と人の関係って切れるの?』です。それでは意見があるひとはどうぞ(毛糸ボールを投げる)」
A氏「僕は人と人の関係って切れないと思います。これは経験なんですけど小学校とか中学校の友人ってその時は友人関係であって,卒業した後関係が切れるというより連絡するような関係でなくなるだけであってつながりが薄くなっただけであるととらえるのが僕の考えですね。はい(せやなと軽くうなずく群衆)」
D氏「(ボールを受け取る)僕も関係は切れないと思います。よく痛いカップルとかで別れた後ツイッターのアイコンが真っ黒とか真っ白とかありますけど,ある程度の関係の厚みが見えないくらいにつぶれただけで無視する同士という関係が続くことはよくあります。これは関係が切れているとは言えないのではないでしょうか。」
S氏「それは違うのではないでしょうか。例えば,街中で知らない人とすれ違ったり,若干目が合っても無意識に面識のない人であると認識していますよね。言うなれば無意識に無視しています。この点においては意識的な無視と意識的な無視で異なりますが客観的に見れば無視という風にとらえられます。すなわち人と人の関係は切ったりつなげたりが簡単ものであると考えます。私は」
T氏「おっ(キャッチ),なるほどね。わかるよ。ところでA,B氏は一度つながったら切れない関係なんだけどそれが薄くなったり太くなったりする関係の形状変化だと考えているんだね?」
A氏「おん。もちろんそのようなイメージ,考えかな。」
B氏「同感」
T氏「T氏的にはねぇ~ほんまやなぁ。どっちも共感するところがあるけど人と人の関係ってある程度客観視されたうえで決まるような点が少なからずあると思うからS氏しに賛同しちゃうかな。ただ人情的にはつながったものが一生切れない考えの方が好きだね。機械的でない方がなんだか性にあうかんじ。」
M先生「有難うございます。おもしろいですね。私はどちらかと言えば一度つながった関係が切れずに変化していくほうに共感しますね。ただどちらも人と人の関係が可視化されていないという点,すなわち無視などの上辺だけでわかる判断基準ではなく,その裏側の心情等にはどのくらい重点があるかどうか気になりますが皆さんどうでしょう。」
A氏「裏側にある重点度は100%です。そりゃだって感情,心情があるからこそつながりが形作られるんです。ときには細くなったり,もう一度つながりが深くなったり時として色が大きく変化することもある。まさに芸術といってもいいです。まさにこれがあてはまるのは恋愛ごとだと思います。つながりが絶たれたとおもってもなにかと切っても切れないことになることが多いと思います。ビジネスパートナーとかでも上辺だけでやっていこうとかそう思う瞬間や思っていることがあるはずです。このことからもやっぱり人の感情や裏側にあるものが何らかの形で無意識に人と人の関係を形づくってしまうのだと考えます。」
M先生「どうですか?この点には皆さんほぼほぼ賛同するような感じですけど(ちょっとしたうなずき)なるほど。じゃあ新しい視点を導入しましょう。もし関係があると思っていても一方がそう思っていなかった場合はどうでしょうか?」
T氏「そりゃ悲しいですね…悲しいは関係ないですけどね。僕は一方的に向けられる感情はあまり好きでないですがそれはそれで別の始点からみればそぐわない関係同士なんて言われそうです。」
B氏「なるほど」
A氏「俺もそう思う。」
S氏「けど,そのようなタイミングで大きくつながりが形状変化して切れそうになったとき,それはもう切れているといってもいいのでは?
A氏「ま,そうなんだけど,それはTPOにあわせた仮面の付け替えの差が激しいからじゃないかな。ON,OFFができるような人は冷徹な人が多いイメージ。人と人の関係が文字通り固まっていてある意味では関係がないようにもみえるかも。」
B氏「むっちゃおもろいこというやんか」
T氏「ここで人それぞれっていう言葉はあまり使いたくないんだけど,ほんと人と人の関係のつながり方とかつなげ方とか切れ方って色々で人と人の関係の形は様々だと思う。けど一度つながったら両者の記憶がなくなろうともつながりは墓に入るまで切れないし,なくならないんだねって思った。第三者の目やその人自体を未来につなげる人が必ず誰かいるんだもの。」
A氏「人ってすげぇよな,生まれた瞬間にすでに誰かの喜びを作りだしているんだもん。喜びを作りだすために生をうけたようなもんだよ。」
M先生「なんだか深くなったり広がったりしているような気がしますがどうでしょう。このあついうちにここらで時間ということで。みなさんお疲れさまでした。」